誕生(1928年)昭和3年4月25日 | 呉服屋を営んでいた父・三上新次郎、母・アイの三男として誕生 |
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入学(1941年)昭和16年4月 | 同志社中学校に入学 |
入隊(1944年)昭和19年4月10日 | 同志社中学3年修了し、陸軍航空通信学校尾上教育隊に特別幹部候補生として入隊 |
配属(1944年)昭和19年10月20日 | 誠第五三二部隊・東郷隊に配属 |
出征(1945年)昭和20年2月 | 特別幹部候補生の過程修了、台湾へ向け出港 |
生還(1945年)昭和20年3月10日 | 台湾沖(基隆港近く)で乗っていた輸送船が魚雷攻撃を受け撃沈、14,000名の乗員のうち救助218名の1人となる |
生還(1945年)昭和20年5月21日 | 特攻隊員として天号航空作戦に参加 敵艦に突っ込むが、その瞬間に片翼が吹っ飛び、台湾沖の小島に胴体着陸し瀕死の重傷を負うが辛くも脱出した |
配属(1945年)昭和20年7月 | 補充部隊に配属 |
終戦(1945年)昭和20年8月15日 | 再び出撃することなく終戦を迎える |
復員(1946年)昭和21年2月27日 | 鹿児島港上陸 |
帰校(1946年)昭和21年4月 | 同志社中学4年、勉学に励みながら辻説法で「大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争に非ず」と訴えた |
入門(1946年)昭和21年4月 | 妙光寺、臨済禅の学僧で著名であった今津洪嶽老師の弟子となる |
卒業(1947年)昭和22年2月 | 同志社中学校を卒業 |
入学(1947年)昭和22年4月 | 同志社外事専門学校 神学部•ロシア語専攻、ヘブライ語でキリスト教神学を学習 |
拝謁(1948年)昭和23年12月27日 | 賀陽宮様に導かれ元陸軍少将秩父宮の邸宅で昭和天皇拝謁し昭和天皇が詠まれた「冬枯れ」の歌を歌う |
中退(1950年)昭和25年2月 | 大阪中之島公会堂で共産党と論戦し3日目に乱闘となり責任をとって同志社外事専門学校を中退 |
修行(1950年)昭和25年2月 | 比叡山で百日断食行を行う、叡南祖賢師の厚情を受ける |
門弟(1952年)昭和27年 | 縁のある、京都・大阪・福井・富山などで講演会を行い、門弟達の強い要請により初めて弟子をもち「松栢会」を命名 |
論文(1955年)昭和30年 | 「当来社会が示すもの」発表 |
発表(1958年)昭和33年 | 日本松栢学会設立趣意書を発表し第三の道を明らかにする |
病気(1974年)昭和49年3月 | 脳梗塞で倒れ回復したが右手足の不自由が残る |
拝謁(1976年)昭和51年7月10日 | 27年ぶりに昭和天皇に拝謁「正成一人 いまだ生きて有りと 聞こしめされ候はば」有名な太平記の一節を朗唱 |
拝謁(1976年)昭和51年7月22日 | 3回目の拝謁の機会があり御前で「海ゆかば」を朗唱 以後、昭和61年9月まで毎月1回参内し拝謁 |
病気(1993年)平成5年7月27日 | 脳血栓で倒れる |
逝去(1994年)平成6年1月8日 | 昭和天皇と同時刻6時33分に死去 |
私的顧問 | 松下幸之助、住友泉会など |
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首相の私的相談役 | 佐藤内閣~竹下内閣 |
講演 | 仙台・東京・富山・名古屋・高松などで地場の経営者に経営管理、指導者論、人間論、兵法論、憲法論、国体論など多岐に渡り講演を行う |